少し恥ずかしさと申し訳なさで、言ってしまうことに抵抗があるけど、実は僕はあまり写真のステートメントを読まない。
絶対に読まない、と決めてるわけではないので読みたい時は普通に読むけど。
髙橋健太郎さんの写真集『A Red Hat』も本当に大好きな写真集だけど、後半の資料のところはまだ読んでいない。予約した時も事件のことはなにも知らないまま、サンプルとして見ることができた数枚の写真を見てすぐに予約させてもらった。
言葉によるある種のバイアスで「そういうふう」に感じさせられることに抵抗があるのかも知れない。
りんごの絵を見たときにある人は酸っぱそうと思い、ある人は甘くて美味しそうと思う。形が面白いと思う人もいるかも知れない。
描く人が「甘くて美味しそうなりんごを描いた」つもりなら「酸っぱそう」と感じた人は間違いなんだろうか。
たぶん写真だけで感じたい思いが強いし、極論、撮影者の想いと僕の考えは無関係でありたい。
それがたまたま一致することもあるかも知れないし、したならそれはラッキーなことで素敵なことだと思うけど、撮影者の想いだけが正解だとも思えない。
テストの答え合わせみたいに、じゃあ僕が写真を見て感じたことは間違いだ、って言うわけでもないと思う。
もちろん、ちゃんと撮影者の意図を汲み取ろうとするのはとても素晴らしいと思うし、多分そうする方が正しいんだと思う。
最近、写真家のShin Noguchiさんの写真を見たときの感想が、すでにステートメントに書かれていた、ということがあった。当然もっと的確にスマートに。
これは僕の偏った鑑賞の方法なんだろうなと思う。
だから僕は自分の写真をどのように解釈されても構わないと思っているし、そんなつもりで撮ったんじゃないんだけどな、とがっかりすることもない。
ちらっと見ただけで「ふーん」って感じで流されてもなにも消費されたことにはならない。