幻想の代替的表層を削取る行為を包含するとき、その人間が個々に把持する強靭なまでの資生を転覆させうる欲望からの要請を任用しつつ、充分に飽満させるだけの精神へと再転不可能であれば、それは内面詐術的な砂上の楼閣となりうる。
奥さんが帰ってくるのを家で待っているとき、帰ってくる時間に合わせていい匂いがしたら嬉しいだろうなと思って、お香を炊いて待っている。
帰ってくると鼻をクンクンとさせつつ一言「なんかくさいな」
デリカシーをどこかに置き忘れてきたか。
キューバに行った時の写真をZineにまとめようとしてまた一からLightroomで編集し直している。
「写真を撮ると記憶が薄れる」そんなふうな研究結果があるとどこかで読んだ。
もしその研究結果が正しいのならボクにはキューバの記憶などほとんど残っていないはず。
でも実際はそんなことは全然ないので、間違ってるよなあ、と思う。
むしろ写真を撮っていない時の旅行のことなんかほとんど覚えていない。
覚えていることだって、それは一緒に行った人と思い出話をしていく中で思い出して作られた思い出で、ひょっとしたらそんなことは起こっていなかったのかも知れない。
人間は都合よく記憶を塗り替える。
ボクは写真を撮ることによって、生きているってことのアリバイ作りをしているのかも知れないな。
写真を撮ることを第一の目的にして出かけることが苦手なのはそんな意識のせいな気がする。
写真を撮るために出かけることに憧れてはいるんだけどな。
奥さんとのデート、友達と遊びに行ったこと。
一人だったとしても、どこかへ行った時の往復の道で少しの寄り道。
写ってはいなくても、撮っているボクの近くには奥さんや友達がいる。そのことを思い出せる。
「写真は思い出の付箋」とは綾瀬風香さんの名言だ。
今、漫画『よつばと!』をまた1巻から読み直している途中。
『よつばと!』は、アニメ化して欲しいな、したらどんな感じかな、と思いながら生きていきたいのでしなくてもいいかな。
あ、冒頭の訳のわからない文章は、このようなことを類語辞典を引きつつダラダラ遊びながら考えていたのを繋げてみたらああなっただけで特に意味はない。ああ、少しずつふざけだした。